第十二段の続き
2021-10-31


(前略)ちらほら人が立ち留つて見る、にやにや笑つて行くものがある、向ふの樫の木の下に乳母さんが小供をつれてロハ台に腰を懸てさつきから頻りに感服して見て居る、何を感服して居るのか分らない。大方流汗淋漓大童となつて自轉車と奮鬪しつゝある健氣な樣子に見とれて居るのだらう、天涯此好知己を得る以上は向脛の二三ケ所を擦りむいたつて惜しくはないといふ氣になる、「もう一遍頼むよ、もつと強く押して呉れ給へ、なに復落ちる? 落ちたつて僕の身體だよ」と降參人たる資格を忘れて頻りに汗気焔を吹いて居る、すると出し拔に後ろから Sir! と呼んだものがある、はてな滅多な異人に近付はない筈だがと振り返ると、一寸人を狼狽せしむるに足る的の大巡査がヌーツと立つて居る、こちらはこんな人に近付ではないが先方では此ポツト出のチンチクリンの田舎者に近付かざる可らざる理由があつて正に近付いたものと見える、其理由に曰く茲は馬を乘る所で自転車に乘る所ではないから自轉車を稽古するなら往來へ出て遣らしやい、オーライ謹んで命を領すと混淆式の博學の程度を見せて直樣之を監督官に申出る、と監督官は降參人の今日の凹み加減充分とや思ひけん、もう歸らうぢやないかと云ふ、則ち乘れざる自轉車と手を携へて歸る、どうでしたと婆さんの問に敗餘の意氣をもらすらく車嘶いて白日暮れ耳鳴つて秋氣來るヘン(後略)


漱石の「自轉車日記」より。いくら小品とは言え全文を引用するのは面倒なので、当該部分のみ抜き書きした。
文中の「監督官」とは大塚武夫という人だそうだが、はたして漱石は英国人の巡査と「何語で」会話をしたのだろうか。

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