群集の人 E・A・ポウ
2022-04-03


群集の人(1840年) E・A・ポウ、佐々木直次郎訳、アーサー・ラッカム画

 Ce grand malheur, de ne pouvoir etre seul.
    ラ・ブリュイエール

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 あるドイツの書物について、”es lasst sich nicht lesen”――それはそれ自身の読まれることを許さぬ――と言ったのは、もっともである。それ自身の語られることを許さぬ秘密というものがある。人々は夜ごとにその寝床の中で、懺悔聴聞僧(ざんげちょうもんそう)の手を握りしめ、悲しげにその眼を眺めながら死ぬ、――洩らされようとはしない秘密の恐ろしさのために、心は絶望にみたされのどをひきつらせながら死ぬ。ああ、おりおり人の良心は重い恐怖の荷を負わされ、それはただ墓穴の中へ投げ下すよりほかにどうにもできないのだ。こうしてあらゆる罪悪の精髄は露(あら)われずにすむのである。
 あまり以前のことではない。ある秋の日の黄昏(たそがれ)近くのころ、私はロンドンのD――コーヒー・ハウスの大きな弓形張出し窓のところに腰を下していた。それまで数か月の間私は健康を害していたのだが、その時はもう回復期に向っていた。そして体の力がもどってきて、倦怠(アンニュイ)とはまるで正反対のあの幸福な気分、――心の視力を蔽うていた翳(かすみ)――
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がとれ、知力は電気をかけられたように、あたかもかのライプニッツの率直にして明快な理論がゴージアスの狂愚(きょうぐ)にして薄弱な修辞学(しゅうじがく)を凌駕(りょうが)するごとく、遙かにその日常の状態を凌駕する、といったような最も鋭敏な嗜欲(しよく)にみちた気分、――になっているのであった。単に呼吸することだけでも享楽であった。そして私は、普通なら当然苦痛の源(もと)になりそうな多くのことからでさえ、積極的な快感を得た。あらゆるものに穏やかな、しかし好奇心にみちた興味を感じた。葉巻(シガー)を口にし、新聞紙を膝にのせながら、あるいは広告を見つめたり、時には部屋の中の雑然たる人々を観察したり、あるいはまた煙で曇った窓ガラスを通して街路をうち眺めたりして、私はその午後の大部分を楽しんでいたのであった。
 この街(まち)は市の主要な大通りの一つで、一日じゅう非常に雑踏してはいた。しかし、あたりが暗くなるにつれて群集は刻一刻と増して来て、街灯がすっかり灯(とも)るころには、二つの込合った途切れることのない人間の潮流が、戸の外をしきりに流れていた。夕刻のこういう特別な時刻にこれに似たような場所にいたことがそれまでに一度もなかったので、この人間の頭の騒然たる海は、私の心を愉快な新奇な情緒でみたしたのであった。ついには、店の内のことに注意することはすっかり止めて、戸外の光景を眺めるのに夢中になってしまった。
 始めのうちは、私の観察は抽象的な概括的(がいかつてき)な方向をとっていた。通行人を集団として眺め、彼らをその集合的関係で考えるだけであった。しかしやがて、だんだん詳細な点に入ってゆき、姿、服装、態度、歩き振り、顔付き、容貌の表情、などの無数の変化を、精密な感興(かんきょう)をもって注視するようになった。

(中略)


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