猿の手 ウヰリヤム・ジェイコッブス 菊池寛訳
一
戸外には冷たい湿つぽい夜があつた。がレイクスナム邸の小座敷の中では、窓掩ひは閉され、炉の火は華やかに燃えて居た。父と子は将棋を指して居た。父は局面が捗らないのをもどかしがつて、自分の王を際どい用もない危険な場所に立ち入らせたので、炉の傍で静かに編物をして居た白髪の老婦人迄が、「ああ王様が危い」と云つた程だつた。
「聞えないかい! あの風が」と、ホワイト氏は取返しの付かない悪手を指したのに気が付いたので、息(むすこ)に感づかれないやうに、息(むすこ)の注意を外らさうとして、そんなことを云つた。
「聞いて居ますとも」と、息(むすこ)は手を指し延べながら盤面をムツチリと、見詰めて居たが、「王手」と云つた。
「今晩はあの男は到頭やつて来ないなあ」と、父は盤面の上に手を中ブラリにしながら云つた。
「詰(つめ)です」と息(むすこ)が答へた。
「之だから田舎住ひは嫌になつてしまふのだ」と、ホワイト氏は急にとつけもないやうに、荒々しく云つた。「むさくるしいじめじめした辺鄙な住居の中でも、茲が一番いけない。路地と云へば沼だ、道と云へば急流だ。こんな家に住まつて居るのは、人聞きだつてよくはない。それかと云つて、此往来で借家は二軒だけしかないのだが、世間の人達はそんなことを考へて呉れないのだからな」
「そんなことは何(ど)うでもいゝぢやありませんか。此の次ぎの勝負にはお勝になりますよ」と、彼の妻はなだめるやうに云つた。
ホワイト氏は直ぐ顔を上げたので、母と子とが意味ありげに、目くばせしようとしたのを妨げた。彼は何(なに)か云はうとしたのを噛み潰して、薄い灰色の髯の中で、そつといまいましげな歯噛をした。
「あ、やつて来たな」と、息(むすこ)のハアバアト・ホワイトが云つた。門が音たかく開けられ思い足音が扉の方に近づいた。
老人はお客大事と云つたやうに、急いで立上つて、扉をあけて、客に「ひどかつたでせう」と慰めて居るのが聞えた、客自身も「随分ひどかつた」と云つたので、ホワイト夫人はチエツと舌鼓を打つたが、夫が背の高い赤ら顔の眼のくるりとした男と、一緒にはいつて来ると、柔しく咳をして居た。
「曹長のモリスさん」とホワイト氏が紹介した。
曹長は皆と握手をした。炉の傍の勧められた座に着いた。主人がウヰスキイと盃を取り出し、銅製の小さい鑵子を炉の上に置くのを、落着いて見詰めて居た。
三杯目の盃を重ねると、曹長の瞬(またゝき)は輝いて来た。彼は語り始めた、この小家族の団欒は異常な興味を以て、この遠い国から来た客を見詰めて居た。客は椅子の上で広い肩を聳やかし、珍らしい光景や荒々しい事業や、戦争や疾病や、珍らしい人種のことなどを話し続けた。
「二十一年になるんだよ」とホワイト氏は妻や息(むすこ)の方を顧みながら云つた、「彼方へ行つた時は倉庫会社のホンの子供上りだつたのが。こんなになられたんだ」
「あまり苦労を、なさつたやうでもありませんね」と、ホワイト夫人が丁寧に云つた。
「いや、住み馴れた所が一番いゝものだ」と、曹長は頭を振つた。飲み干した盃を措きながら、軽い溜息をして頭を再び振つた。
「いや古いお寺や、波羅門の行者(ぎやうじや)や、魔術使ひなどを見たいものぢや。さうさう此間君が僕に話しかけやうとした話があつたね。猿の手か何かの話だつたが」
セ
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