金毛の羊皮 3
2022-07-10


「そら、わたしの裾が水で濡れるじゃないか? そんなによろけると、わたしが落ちるじゃないか? もっとしっかりおし! そんな弱虫で王になれるかい?」
 ヤソンは「忌々(いまいま)しい老婆だ!」と思って、一時は水の中に打込(ぶちこ)んでやろうかと思った位腹が立ったが、それでもカイロンに約束した言葉を思い出して、じっと辛棒(しんぼう)した。
「お母(っか)さん、こらえて下さい!」と彼はすなおにあやまった。「上等な馬でも、たまには躓(つまづ)く事がありますから。」
 こんな風にして石の間を辿りながら、もう少しで向うの岸へ着く処まで来ると、片方の足が大きな岩の間へ挟まったのを、抜こうとする拍子に、沓(くつ)がぬげてしまったので、ヤソンは思わず小さな声を立てた。
「ヤソン、何をした?」と老婆が背中から尋ねる。
「大変なことをしました。」と青年は答える。「足を抜く拍子に、片方の沓を岩に取られてしまいました。これでイオルコスへ行ったら、いい笑い物になるでしょう。」
「気にかけるには及ばない。」と老婆が言った。「それで神託が果たされるのだから。」
 ヤソンには、老婆の言った意味が、よく了解(のみこ)めなかった。けれども問い返す暇もなく、ようようのことで向岸(むこうぎし)へ辿り着いて、老婆を草の上へ下(おろ)した。その時老婆の肩の上には、先刻の孔雀がいつの間にかとまっていたが、岸へ着くと、ふわりと肩から下りて、老婆の前で美しい羽を拡げた。その時老婆の大きな、鳶色の目の中から、美しい光が出て、あたりを照らした。と思う中(うち)に、老婆の姿は忽ち神々(こうごう)しい女神の姿になって、すっくりとヤソンの前に立った。
「私はオリムポスの女王です。ヘラです。」と女神は凛とした声で言った。「ヤソン、さあ、お前の行く処へおいでなさい。そして行く先々(さきざき)で困った時には、いつでも私の事を思い出しなさい。お前が私にして呉れた通りの事を、私もお前にして上げるから。」
 ヤソンはこの有様を見ると、思わず跪(ひざまず)いて、両手で顔を隠したが、再び顔を上げた時には、女神の姿は、一片の雲のように、空を翔(かけ)ってオリムポスの方へ帰って行った。ヤソンはその後を見送って、徐(しず)かに立ち上がると、イオルコスを指して真直ぐに下って行った。

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