ディケンズ「オリヴァー・ツウィスト」1 馬場孤蝶訳
2023-05-31


一、救貧院

 さる市(まち)、その名は言はないことにする方がよからうと思ふし、さればと言つて仮名(けみやう)は附けないで置くが、さういふ市の公共の建物の中に、大きいにせよ、小さいにせよ、大抵の市には、何処でも古くからある建物がある。即ちそれは救貧院だ。で、この救貧院で、別段今の所、何年の何月何日と、判然と言ふ必要も無いから、それは言はぬが、兎に角或る日のこと、一人の人間が生れた。それは、この章の一番初めに書いてある名の人間である。

・[筆者註:原作第一章の章題は「TREATS OF THE PLACE WHERE OLIVER TWIST WAS BORN AND OF THE CIRCUMSTANCES ATTENDING HIS BIRTH」]

 一体人間に取つて、救貧院で生れるといふことが、それ自体で最も好運な羨む可(べ)きことがらだと主張する積りはないのであるが、それにしても、この特別の場合では、救貧院で生れるといふことさへ、オリヴァー・ツウィストに取つては、一番運の宜しいことであつたと言ひたいと思ふ。この世に生れて、呼吸(いき)をしだすといふ仕事は、なかなか面倒なことではあるが、吾々が其後安々と世の中に生きて行く為には、是非服さなければならぬ習慣である。所が、オリヴァーをして、この呼吸(こきふ)の仕事に従事せしめるには、なかなか骨が折れた。さういふ風で、オリヴァーが、この世とあの世との間に、いや、彼(あ)の世の方へ却つて近くと言つていゝ位に、さまよひながら、小さい毛屑(けくづ)入りの敷蒲団の上で、喘いでゐる間、これが若し身分のいゝ人の児で、大心配(おほしんぱい)の祖母(おばあ)さん達や、伯母さん達や、幾人もの熟練な看護婦や、深い知識の医者等(など)に取巻かれてゐたのであつたら、オリヴァーは、何(ど)んなことがあつても必ず殺されて終(しま)つたであらう。けれども実際その場合は、オリヴァーに附いてゐる者と言つては、麦酒を何時もよりは余計に引つかけたが為に、却つて悲しい気持ちになつてゐるといふやうな院内の婆さんと、請負(うけおひ)で院内の治療を引き受けてゐる教区医者と、さう、たつた二人きりであつたので、オリヴァーと、天然とが、人混(ひとま)ぜもせず、生死の闘ひをし抜かうとした訳であつた。其結果として、少しの悶躁(もが)きをなしてから、オリヴァーは、呼吸(いき)をし、噴嚏(くしやみ)をし、そして、三分(ぷん)と四分(ぶん)の一よりずつと長い時の間、人間に取つて極く必要な附属物、即ち声を持つてゐなかつた男の孩児(あかんぼ)相当の声で、自分の生存を告げ知らしたが、それはその児の生れたことによつて、新たな負担が、その教会区へかゝるといふ事実をば、救貧院内の人々に、普(あまね)く宣言したことになるのであつた。
 オリヴァーが、さういふ風に、彼の肺が自由に、相当に働くことの最初の証拠を表はすといふと、鉄の寝台の上に無雑作に投げ掛けられてゐた綴(つ)ぎ合せの掛蒲団がさらさらと動いて、若い女の蒼ざめた顔が、枕から弱々と上がつた。そして弱い幽(かす)かな声が、やうやうと言つた。
「孩児(こども)を見せて、死なして下さい。」
 医者は、煖炉の方へ顔を向けて坐つて、手の掌(ひら)を暖めるのと、擦(こす)り合すのとを、交(かは)り番毎(ごと)にやつてゐた。若い女の言葉を聞くと、彼は立ち上つて、寝台(ねだい)の頭の方へ進んで行つて、思ひの外親切に、
「いや、死ぬるなどと言つては不可(いけ)ないですよ、未(ま)だ」
 隅の方で、緑の硝子壜(ガラスびん)の中のものを、如何にも甘(うま)さうに味はつてゐた婆さんの看護婦は、その壜を手早く衣嚢(かくし)へ押し込んで言(くち)を挟んだ。

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