『『坊つちやん』の部分々々には根拠がある、事実がある、モデルがある、何度読んでも可笑しくてならぬが、其では何の役は誰かと問はれると少し困る。数人一役、一人数役、分解綜合取捨構成してあるからだ。主人公「坊つちやん」にしても漱石の事もあり僕の事もある。僕と漱石との間には、毎日の出来事や失策等を互に語り合うて、笑ひ興ずる事が多かつたので、自然二つが一緒になつて一人の「坊つちやん」を作り上たものだらう。僕が小唐人町と湊町一丁目の角のウドン屋でしつぽく四杯喰つたら、シツポク四杯也と黒板に書かれた。小説では漱石が自分の好きな天麩羅蕎麦に改めてゐる。漱石は道後遊郭の門の右で湯洒し団子二皿喰つて五銭払つてやはり黒板に書かれて、遊郭の団子ウマイウマイと御丁寧にポンチ絵まで添へられたが、小説では団子を七銭に値上げしてゐる。反対に城戸屋(きどや)(山城屋)では茶代十円を払つて江戸ツ子の気前を見せたものだが、小説では五円にまけてゐる。生徒は漱石が道後温泉で泳ぐことや手拭が赤くなつたことなどを次から次へ問題にした。それでは漱石を侮辱するつもりかといふとさうではない、内心その実力には敬服してゐた。殊に月給八十円は現在その数倍にも当り、いたづら盛りの生徒達も度胆を抜かれて神様のやうに思つてゐた。総じて松山人は利巧で頭がよい、茶目もやるが罪がない、騒いでゐても授業を始めればおとなしく傾聴する、だから本当に腹も立てられないので、どうも始末にをへないと漱石も困つてゐた様だ。――』
また生徒達は、先生を綽名で呼んでゐた、数へ唄といふのも流行つて「七ツ夏目の鬼瓦」などと唄つたものである。それは漱石先生の鼻のあたりに痘痕があつたからだ。
漱石先生は明治二十八年四月上旬松山に赴任されたのであるが、船着場から松山までは『坊つちやん』の所謂「マツチ箱」の軽便鉄道に乗つたのだ。当時この伊予鉄道はマツチ箱式の軽便に過ぎなかつたが、今は電化してスマートな電車が走つてゐる。
それから第一夜を三番町の城戸屋旅館に投じた。此旅館は現存して「坊つちやんの間」といふのが残つてゐるが、経営者は変つてをり当時の主人は十数年前に物故した。漱石先生が第一夜を明かしたのは「竹の間」といふ部屋で、その頃城戸屋の試験室といはれてゐた。試験室といふのは素性のよく解らない客を泊めておいて、よくその人柄が解つてのちに他の適当な部屋へ変へるといふ意味であつたのだ。だから漱石先生も一先づ試験室たる竹の間に案内されたのだが、翌日新聞の辞令欄で、月俸八十円の先生といふ事が解つたので、是は偉い先生だといふところから、十五畳の新館一番に転室したのであつた。
そんな調子だつたから、宿屋に長くゐては第一不経済だとあつて、骨董屋いか銀に下宿することになつた。いか銀といふのは一番町の津田安五郎氏宅だが、いまは久松伯爵邸の一部となつてをり、全く跡形もない、主人公も夙くに物故してゐて、偲ぶよすががちつともない。たゞ下宿料一ケ月十円だつたと伝へられてゐる。
このいか銀宅に三ケ月あまり下宿してゐて、六月の末か七月初めに二番町の上野氏宅へ転宿した。上野氏は松山の豪商米九の番頭をしてゐたが、そこの離れを借りたわけである。この家はいま寺井津次郎氏の所有となつてをり、当時のまゝ現存してゐて、松山に於ける漱石先生の遺跡としては唯一のものだ。保存会の手で永久に残す方法が講ぜられてゐる。また漱石先生はこの仮寓を愚陀仏庵と名づけ、自ら愚陀仏と号してゐた。
愚陀仏は主人の名なり冬籠
といふ句でそれが窺はれる。当時書き残された短冊などを見ても愚陀仏と署名をしてあるものが多い。