「漱石先生と松山」 鶴本丑之介
『坊つちやん』といへば、すぐ松山中学を連想する。『坊つちやん』が松山中学を背景として書かれたものであることは、あまりにも有名である。そこで、作中の人物についても誰は何先生、彼は某先生とそのモデル詮索が今に至るまで繰り返されてゐる。殊に「山嵐」の「堀田先生」は、松山中学の柱石といはれた故渡部政和先生であるといふ伝説が専らである。私は渡部先生には数学を教はつたが、その剛直な性格が「山嵐」によく似てゐると思つただけである。だが、私達は蔭で、先生のことを「山嵐」とか「政和さん」とか呼んだものである。後年、渡部先生から『坊つちやん』時代の追憶を聞く機会を得たが、その時先生はこんな風な話をされた――。
『夏目さんが松山中学に在任されたのは、一ケ年ばかりに過ぎなかつた。英語教師として来られたのだが、学校の俗務などには関係されず、常に毅然としてゐた様だ。教員室などでも黙々として居られた様に記憶する。自分は生徒監をしてゐて大抵別室にゐたから、先生との交渉はあまりなかつた。先生が松山中学に居られた時代に『坊つちやん』に出てゐた様な事があつたかといふと、あのまゝの出来事があつたとは思はれない。あれを読んで、多少モデルにされたかと思はれる節はあるが、あのまゝの事実があつたわけではない。先生の鋭敏な観察眼によつて、当時の職員達の性向を観破し、巧みにこれを作中に躍らされたといふ感はある。自分もその一人の様に思はれるが、もし自分だつたら、小説の結末にあるやうなことはやらなかつたと思ふ。新しく松山中学に赴任して来る先生は、何れも『坊つちやん』に書かれてゐる様な学校だと思ひ込むらしいが、来てみるとさほどでもないので面喰ふ様だ。兎に角『坊つちやん』のお蔭で松山中学は随分広く天下に名を知られるに至つた。それから寄宿舎の生徒たちが、バツタを放つていたづらをやつたことが書かれてゐるが、自分には全然記憶がない』
小説では「坊つちやん」と「山嵐」は肝胆相照らす仲になつてゐるが、渡部政和先生の追憶によると、個人的には余り交渉がなかつた様である。剛直、磊落の性格は「山嵐」そつくりであつたが、結末にある如く辞表を叩きつけて、松山を去るどころか、爾来二十数年教鞭をとられ、昭和九年七月、七十七歳で永眠されたのである。
野球で天下に名を知られる中等学校は珍らしくないが、小説で名を知られた中学校といふのはあまり例がない。松山の書店では『坊つちやん』はいつも売切れ続きであつた程、愛読されたものである。勿論現在でも若い人達の間に読まれてゐる事はいふ迄もない。
前陸相川島義之氏も、夏目先生に英語を教はつたことがある。
『随分古いことで、それに自分は平凡な生徒に過ぎなかつたから、先生に特に目をかけられたといふ記憶もない、たゞ非常に明快な教授振りで、これは普通の先生ではないと感じ入つたことを覚えてゐる。自分はどちらかといへば、英語よりも数学に力を入れてゐたので、先生の憶ひ出は眞鍋君や松根君の様に持つてゐない』と語つてゐたが、川島氏は士官学校志望だつたので、在学中から数学に特に力を入れたらしく、「山嵐」の渡部先生に私淑してゐて、自宅へまで赴いて教へを乞うたものである。川島氏の述懐にもある様に、漱石先生の明快な教授振りには、当時腕白盛りの中学生一同が舌を捲き、心から敬服した様子である。
その当時の数学の先生弘中又一氏は、いま京都で悠々自適の生活を送つて居られるが、川島氏は陸相就任の直後、京都でこの弘中先生に会はれ、一夕昔話に花を咲かせられたことがある。その弘中先生の『坊つちやん』の想ひ出――。
セ
記事を書く