メデューサの首 1
2022-05-24


メデューサの首 中島孤島

(一) 波に漂う箱船

 アルカディアの山々から吹き下ろす風が、アルゴスの谷を渡って、静かにアルゴリスの入江を吹いて行った。その時、穏かな波の上を揺られながら流れて行く一つの箱船があった。船は、一人の少女と、まだ日も経たない嬰児(あかご)を乗せて、波の間(ま)に間に漂って行く。船は次第に岸を遠ざかって、やがてアルゴリスの鼻を過ぎると、見渡す限り、空と水の外(ほか)には眼を遮(さえぎ)るものもない大海のただ中に浮び出した。この時波はやや高くなったが、夏の空は雲もなく澄み渡り、風は柔らかに船側(ふなばた)を撫ぜて、波の上には水鳥が眠っていた。けれども日が暮れて、海面が闇の底に包まれると、彼女(かれ)の心は何とも言えぬ恐怖に圧着(おしつ)けられて、冷たい涙が頬へ流れた。彼女(かれ)はじっと幼児(ようじ)を抱き締めて、口の中で子守歌をうたい出した。幼児は、何も知らずにすやすやと眠っていたが、若い母親は、瞬くような星の光を仰ぎながら、様々の事を考えていた。
 彼女(かれ)の父はアクリシオスと云って、アルゴスの王であった。アクリシオスには、この王女――名をダナエと言った――の外(ほか)には子が無かったので、手の中の玉のように大切にして育てていたが、或る時デルフォイの神殿へ詣(まい)って、自分の将来についてアポロンの神託を求めると、神の言葉はこう言って王に告げた。
「王女のダナエに子が生れる。その子の手によって、王の命は断たれる。」
 王は思案に暮れて、神殿から帰って来た。胸の中では、一図(いちず)にこの宿命を遁(のが)れる道を考えていた。王の、死を恐れる心は、娘を愛する情よりも強かったので、遂に王女を犠牲にして神々を欺き、運命の裏をかこうと決心した。王は急に大きな黄銅の塔を作らせて、ダナエをその中へ幽閉した。この塔は元より窓は一つもなく、ただ頂上から日の光が差し込むばかりで、外界との交通は更にないので、ここから出しさえしなければ大丈夫だと思ったのである。
 併(しか)し誰が宿命の糸を断ち切る事が出来ようぞ? 或る日オリムポスの山上から、大神(おおがみ)ゼウスが、下界を眺めると、ふとこの塔が目に入った。大神は塔の中から洩れる王女の嘆きを聞いて、不愍(ふびん)に思うと共に、黄金の雨に身を変じて、塔の中へ下って行った。そしてダナエを慰めて、その苦痛を忘れさせているうちに、ダナエは大神と契りを重ねて、一人の男の子を生んだ。名をペルセウスとつけて育てていたが、程なくこの事が王の耳に入ったので、王は且(か)つ驚き、且つ怒った。「天の神が此方(こっち)の計略の裏をかくつもりなら、此方でも又その裏をかいてやろう!」こう思って、王はダナエとペルセウスを連れて海岸へ下(くだ)った。そして二人を一つの箱船へ乗せて、波のまにまに流してやった。
 ダナエはこんな事を考えている中(うち)に、幼児を抱いたまま、うとうとと眠ってしまった。こうして幾日かの間(あいだ)、海の上を漂っている中(うち)に、或る朝一つの島へ流れ着いた。是(これ)はエーゲ海の中(なか)にあるキクラデス諸島の一つで、セリフォスという島であった。折よく一人の漁夫に見付けられて、ダナエ母子(おやこ)は箱船の中から救い上げられて、この島の王ポリデクテスの処へ連れて行かれた。

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