オリヴァー・ツウィスト 8
2023-07-17


八、かげろふ小僧

 オリヴァーが、本道へ出たのは八時であつた。もう市(まち)から五哩(マイル)程離れてゐたけれども、追手がかゝつて、捕へられてはならぬと思つて、生垣の下に隠れ隠れしてゐるうちに、正午(ひる)になつて終(しま)つた。そこで、哩程石(マイル・ストオン)の側(そば)に腰掛けて休んで、そこで初めて、何処へ行つて暮すことにしたらよからうと考へだした。
 石には大きな字で、そこから倫敦(ロンドン)へ七十哩(マイル)だと書いてあつた。オリヴァーは、院の老人などからかねがね聞いてゐたその大きい市(まち)へと行かうと決心した。
 オリヴァーは、倫敦(ロンドン)の方へと、もう四哩(マイル)程行つた処で、その目的の場所へ行き着くまでには、何(ど)うしなければなるまいかといふことに気が附いた。で、少し歩きかたを遅くして、倫敦(ロンドン)へ行ける方法を思案した。彼は包みの中に殻(から)ばかりになつたパンと、粗い布のシャツと、二足分の靴下を持つてゐた。彼は又衣嚢(かくし)に一片(ペニイ)持つてゐた。それは、何時(いつ)もより非常に善く働いたといふので、或る葬式の後で、サワアベリイが呉れたのであつた。
「清潔なシャツは、ほんとに心持がいゝ。二足の靴下もいゝ、一片(ペニイ)もいゝ。だが、これだけぢやア、冬、六十五哩(マイル)歩くには余り足しにはならないや」
 オリヴァーはさう思つた。
 大抵の人は、自分の行方に横(よこた)はる困難には直ぐ気の附くものであるが、それに打ち克つ方法は容易には思ひ附けないものである。オリヴァーも勿論さうであつたので、何といふことなしにいろいろと考へた後で、包みをば、他の肩へと担(にな)ひ換へて歩いて行つた。
 オリヴァーはその日二十哩(マイル)歩いたが、その間乾いたパンの殻(から)を食ひ、道側(みちばた)の小屋の戸口で水を貰つて飲んだきりであつた。夜が来ると、草場(くさば)へ入つて、乾草堆(ほしくさづか)の下へ這ひ込んで、朝まで其処で寝ようとした。最初は怖かつた。風が樹も何も無い野の上を、物凄い音で吹いたのだ。その上彼は寒くつて飢ゑてゐた。そして、この上もなく淋しかつた。けれども、歩いて疲れきつてゐたので、直きに寝入つて、苦労を忘れてしまつた。
 次の朝起きた時には、身体が寒くつて、硬くなつて、その上腹が減つてたまらなかつたので、通り掛つた一番最初の村で、それきりの一片(ペニイ)で、小さいパンを一斤買はないではゐられなかつた。その日は、十二哩(マイル)とは歩かないうちに、又夜がやつて来た。足の裏は痛み、股(また)も弱くなつて、膝から下が力なく顫(ふる)へた。もう一晩、物淋しい野天(のてん)で寝たので、尚(な)ほいけなくなつた。次の朝立たうとすると、もう這ふやうにしてゞなければ歩けなかつた。
 或る村では、その土地で乞食するものは誰でも牢屋へ入れるといふ掲示札(けいじふだ)が出てゐた。オリヴァーは、その村を離れてしまつた。他の村では、オリヴァーが宿屋の庭に立つて、通る人を悲しさうに見てゐると、何か盗む積りではないかと怪しまれて、主婦(おかみ)さんの吩咐(いひつけ)で追ひ払はれた。農家で乞食をすれば、何処でも犬をけしかけるぞと脅された。商人屋(あきんどや)の店先に立てば、教区吏に引き渡すぞと怒鳴られた。

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