第九十九段
2022-05-19


 十四日の一時四十分に到頭さしもの恐しいマッターホルンの頂上、天にもとゞくやうな頂上へ登り得て大(おほい)に喜んで、それから下山にかゝりました。下山にかゝる時には、一番先へクロス、その次がハドウ、その次がハドス、それからフランシス・ダグラス卿、それから年を取つたところのペーテル、一番終ひがウィンパー、それで段々降りて来たのでありますが、それだけの前古未曾有(ぜんこみぞう)の大成功を収め得た八人は、上りにくらべては猶(なほ)一倍おそろしい氷雪の危険の路を用心深く辿りましたのです。ところが、第二番目のハドウ、それは少し山の経験が足りなかつたせゐもありませうし、また疲労したせゐもありましたらうし、イヤ、むしろ運命のせゐと申したいことで、誤つて滑つて、一番先にゐたクロスへぶつかりました。さうすると、雪や氷の蔽(おほ)つてゐる足がゝりもないやうな険峻(けんしゆん)の処で、さういふことが起つたので、忽ちクロスは身をさらはれ、二人は一つになつて落ちて行きました訳。あらかじめロープをもつて銘々の身をつないで、一人が落ちても他が踏止(ふみとゞ)まり、そして個々の危険を救ふやうにしてあつたのでありますけれども、何せ絶壁の処で落ちかゝつたのですから堪(たま)りません、二人に負けて第三番目も落ちて行く。それからフランシス・ダグラス卿は四番目にゐたのですが、三人の下へ落ちて行く勢で、この人も下へ連れて行かれました。ダグラス卿とあとの四人との間でロープはピンと張られました。四人はウンと踏堪(ふみこら)へました。落ちる四人と堪へる四人との間で、ロープは力足らずしてプツリと切れて終(しま)ひました。丁度(ちやうど)午後三時のことでありましたが、前の四人は四千尺ばかりの氷雪の処を逆(さか)おとしに落下したのです。後(あと)の人は其処へ残つたけれども、見る見る自分たちの一行の半分は逆落しになつて深い深い谷底へ落ちて行くのを目にした其心持はどんなでしたらう。それで上に残つた者は狂人の如く興奮し、死人の如く絶望し、手足も動かせぬやうになつたけれども、さてあるべきではありませぬから、自分たちも今度は滑つて死ぬばかりか、不測の運命に臨んでゐる身と思ひながら段々下りてまゐりまして、さうして漸(やうや)く午後の六時頃に幾何(いくら)か危険の少いところまで下りて来ました。

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